FEARシステムの弊害 試行錯誤はなぜ衰退したか?
前回の続き。
ゲームでの楽しさのひとつが、試行錯誤の楽しさである。
変化する状況になんとか対応しようとする楽しさと言おうか。
これは、ちょっと考えたり頑張ったりすればできるレベルが理想的。
分かりやすく言えば、2〜3レベル上げれば新しいステージの敵と渡り合えるようなバランスだ。
そしてTRPGほど、状況がめまぐるしく変わるゲームもない。
集まった参加者、それぞれの精神面でのコンディション、判定の成功失敗と、ざっと挙げただけでも3つはある。
刻々と変わる状況を理解し、自分たちにとって楽しいと思える方向に持っていこうとするのが、TRPGを遊ぶというこてだし、TRPGがゲームたるゆえんだと思う。
翻って現状を見ると、1つのやり方でしか遊ばない、他のやり方を考えようとしない人が増えているようだ。
ハンドアウト論争でも、その傾向は明らかになっていると思う。
少し発想を変えたり、考えればできそうなことを最初から無理、と拒否してしまう。
厄介なことに、こういった人たちは無自覚だ。 全員ではないにしろ、ほとんどがそうだろう。
自分の遊ぶスタイルに拘りすぎて、他の遊び方を認めない、考えない、検証しようとしない。
考えてみたうえで合わない、ではなく、考えずに合わないと言うのだ。
実に残念である。
不可能を可能にしたり、難しいことをなんとか簡単にしたり。
どうにかできないかと頭を捻る。
そうした試行錯誤が楽しいのに、それを放棄してしまっている人たちがいるのが実に残念でならないのだ。
現状が楽しいのなら、それでいいのかもしれないが。
パターンが決まってしまった遊びはやがてマンネリになり、飽きてしまうもの。
けれど、飽きてしまったその遊びには、まだ楽しみ方があるかもしれない。
たとえれば、せっかく遊園地に行ったのにジェットコースターしか乗らないようなものだ。
何度も乗っていれば飽きてくる。
そこで遊園地はつまらないと言ってしまう。
ワシが言いたいのは、遊園地はジェットコースターの他にいろんなアトラクションがあるよ、ジェットコースターばかり乗らずに他のものも遊んできたら、である。
なんか抽象的すぎてわからん、という人には次回で具体例を挙げて説明するので、しばしお待ちいただきたい。
次回に続くのじゃよ(笑)