FEARシステムの弊害 我々は失敗を恐れすぎてしまったのだろうか?


 ワシはわりとFEARシステムには好意的だった。
 なにせ口数も少なく、要領も分からないワシみたいな人でも、一定以上の出番と満足感を得られたからだ。


 ただ、最近はいろいろと弊害を感じる。
 FEARシステムの根幹にある考えは、GMがあるていどセッションの方向性を取り仕切ることで、セッションの崩壊=失敗を無くそうというもの。
 FEARシステムは、質の悪いPLだったり事故だったりで、セッション崩壊も有り得たそれまでのTRPG環境を改善し、初心者でもなんとかセッションをこなせるレベルにはなったのだが。
 今度は逆に失敗しなくなったことで弊害が起き初めている。
 結論から言えば、『遊び手に冒険心がなくなっている』のだ。




 『冒険心がなくなっている』とは、どういうことか?
 それは遊びかたが固定されてしまい、発展しないということだ。
 以前にもハンドアウトの是非について熱心な議論がなされていたが、もともとハンドアウトは絶対的なものではない。
 あれはGM側の希望や、前もって決めておいたセッションの流れを文章化したものにすぎない。
 公式リプレイでも、PLたちから変更や調整したいと要望があれば打ち合わせをしていたし、そうでないリプレイにしても、細かい部分ではGMとPLによる微調整や大調整がなされているはずである。
 そもそも何の調整も意見交換もなく、ただ淡々と従っていて面白いセッションができるほどTRPGは甘くない。
 参加者全員が、口頭ないし言葉以外での意見の調整や変更を、セッション進行にまじえて行なっているからTRPGは面白いのだ。
 あらかじめ決められているのではなく、リアルタイムで変化する状況に直接対応していくことで生まれる物語。


 もちろん、ただ物語が生まれるのを待っているだけでは、面白い物語は生まれない。
 参加者全員がより面白い物語をつくろう、としなければできるはずもない。


 FEARシステムは失敗を恐れるあまり、面白い物語をつくろうとする過程を切り捨ててしまったのではないかと思う。
 ハンドアウト論争や、ネットでの記事とかリプレイ読んでると、本当にそう思う。
 試行錯誤こそが楽しいのに、と思う。


 ……なんか長くなりそうなので、続きます(笑)