ワシの人生はワシのもの、日本は日本国民のもの
ワシが今まで歩んだ人生は、取り返しがつかない。
過去はやり直せない、
書き換えられない、
なかったことにはできない。
だからこそ、ワシの過去はワシのものだ。
どんな権力も、財力も、友愛も、。
神や仏ですら、ワシの過去は変えられない、奪えない。
正直失敗ばかりだし、独りよがりだし、精神環境上最悪で、今すぐタイムマシンに乗ってやり直したいくらいだけど、そんなことはできない。
だから、確信できる。
ワシの過去は、人生はワシのものだと。
その人の人生は、その人自身が積み上げなければ、形にならない。
歴史もそう。
国家もそう。
民族もそう。
だから、ワシらは国家によって別れている。
歩んだ歴史によって別れ、
その歴史を共有する民族・国民に別れている。
世界は、それぞれが歩んできた時間によって、バラバラだ。
だけど、それは少しも寂しいことでも悲しいことでもない。
あなたにあなたの変えられない人生があるように、相手にも相手の人生がある。
それはつまり、あなたはあなたとして存在し、相手は相手として存在していることだからだ。
もし、それを寂しがったり、間違ってると思って、いろいろやっても一つにはなれない。
個人同士はもちろん、国家も歴史もだ。
何をしても、その試みは失敗する。
なぜなら、国家や歴史や民族をひとつにしようとするなら、それぞれひとつひとつの歩んだ過去全てを、“歩んできた者の視点・感情”で体験しなければならないのだから。
そんなことは、神さまにだって、仏さまにだってできない。
地球市民という思想がある。
人類は国家を越えて、ひとつになるべきだと。
それは尊い理想ではあるけれど、自分や相手の歩んだ過去・歴史を尊重していない。
相手の歩んできた人生を否定し、都合のいいように作り直せと言っているに等しい。
耳障りのいい言葉に飾られた、とんでもなく残酷な、強姦魔のような思想なのだ。