デモンパラサイト 『あの日の夏、ぼくたちの夏』17
ミナは目の前の景色に、思わず息を飲んだ。
2人がいるのは、神社の後ろにある山を少し登ったところにある、小さな丘。
そこからは大友市の住宅街、繁華街、そして海が一望できた。
正人とミナが着いた頃には、空で黄昏の朱と夜闇の黒が混じり合い、なんとも感傷的な色合いを見せ始めていた。
夜の訪れと共に、街には徐々に灯が燈りだし、それを眼下の川が街の向こうに広がる海が、優しく包み込んだ。
優しい輝きは水の流れに従ってゆらゆらと揺らめく。
少女の瞳はその色と輝きを余すことなく映し、きらめいた。
感嘆の叫びをあげるように大きく開かれた口からは、しかし一言も発せられることはない。
言葉にならないほどの感激。
今の彼女の気持ちを表すのに、これほど的確な表現はあるまい。
ゆっくりと数分経って、少女の喉からソプラノが漏れる。
「……すごい、きれい」
その声は穏やかで、それでいて熱を帯びている。
「だろ? とっておきの場所なんだぜ」
素直に感激を表す少女を眩しく思いながら、少年は誇らしげに答えた。
正人が小さい頃に偶然に見つけた場所。
その時も、こんな景色が広がっていた。
世界にこんなにきれいものがあるのかという驚き、自分で見つけたという達成感。
もう10年近く前の出来事にも関わらず、その時の感動は色褪せない。
……さきほどまでは。
今、少年はそれよりもきれいなものを見ていた。
視線の先にはミナがいる。
(まだ、こんなやつがいたんだな)
正人が心の中で、安堵と感嘆の溜息をつく。
正人にとって、自分が生きる世界とは薄汚れたもの。
人とて例外ではない。
父が自分と母の元から去ったのも、友が深い心の傷を負ったのも、全ては悪意ある者と黙認した者の所業。
正人は怒り、そして彼らを憎んだ。
どうにか打ち倒そうとした。
だが、彼らは膨大ゆえに強大で、たかが少年一人で太刀打ちできはしなかったのだ。
かくして少年は世界に失望し、人に失望し、無力な自分自身に失望した。
そんな思いを2年あまり抱え、身も心も疲れ果てていたその時、ミナに出会った。
数日前に出会い、予想もしない行動に及んだ少女。
ふとしたことから、一緒に子猫の供養をした。
突然消えたかと思えば、翌日に突然現われ、再会した。
最初は変な少女だと思った。
しかし、少女のいろんな表情、言葉、気持ちを知るうちに、いつのまにか正人の心に彼女の存在が根付いた。
まだ、これほど心のきれいな人がいたことが嬉しかった。
そんな人間は父や母、朱夜だけだと思っていたのに。
種が芽を出すように少女への思いが生まれ、育ち、今や花開こうとしていた。
「どうしたの?」
もの思いに耽っていたからか、視線に気付いたミナの問い掛けに驚いてしまう正人。
そんな正人の様子に、ミナは不思議そうな顔をする。
「大丈夫? ねえ、どうしたの?」
「……あー」
生返事をするも、後が続かない。
ごまかしてお茶を濁そうかと考えるも、そんな都合のいい言葉は思いつかない。
思ったことを正直に言うしかあるまい。
正人は腹をくくった。
「……きれいだな、って思ってよ」
「きれい?」
「まあ、かわいい……ってことだよ」
「かわいい?」
確かめるように正人の言葉を反芻するミナ。
花が咲いたように、少女の白い頬がほんのり朱色に染まる。
「あたしが?」
「ああ」
答える正人の顔もまた、赤い。
しばらく見つめ合う2人。
「あたしが……かわいい」
やがて俯いて、反芻するミナ。
その声が潤んでいるように正人には聞こえた。
「正人……」
熱を帯びた少女の声。
顔を上げたミナは手を胸で組み、瞳を閉じ、顎を引いた。
その姿は口づけを待つ乙女そのもの。
微かに震えているのさえ愛らしい。
……唇を前に出し過ぎて不自然になってはいたが。
おそらく、こうしたことは初めてなのだろう。
それを笑う余裕は正人にはない。
彼もまた、微かに震えながら両手をミナの肩に乗せる……寸前で虚空に停止させ、不器用に自身とミナの唇を重ねようとしていた。