自主性と責任

前から嫌というほど繰り返されたことだが、今回もマスコミ…いや“マスゴミ”の暴走は止まらない。




例の斧少女や斧少年の事件についてのことだ。


犯人が供述したわけでもないのに、勝手に《ひぐらしの鳴く頃に》や《school days》などの作品をバッシングしている。


変な話である。
脊髄反射だけで生きているわけじゃあるまいし、暴力描写を見ただけで、暴力事件を起こすなど、常識と良識を持つ普通の人ならありえない話だ。
最も影響を与えたのは、犯人の持つ資質であったり、家族であったり、交友関係であったりなど、その他諸々の周辺環境である。



それに比べれば、アニメやゲームのもたらす影響など微々たるものである。


ゲームの影響を言い出すなら、《ポケットモンスター》はどうなる?
野生動物を捕獲・調教し見せ物として戦わせる、という真に情操教育に悪いゲームだが、なぜバッシングしない?
野生動物を捕獲し、奴隷として戦わせることを目的とするゲームだが、なぜバッシングしないのか?




…やれやれだぜ。




あと、ゲームやアニメとマスゴミとでは決定的に違う部分がある。



受け手の自主性の有無と検証余地の有無だ。


ゲームや漫画はお金を払って買わなきゃできないし、読めない。
アニメはどうか?
今回槍玉にあげられているアニメ作品は全て、深夜枠でしか放送されていない。
夕方やゴールデンタイムならともかく、深夜の1時や3時など、たいていの人は寝ている(夜仕事している人は知らないが)。
つまり、そのアニメを見るためにはわざわざ時間まで起きてるか、録画するかDVDを入手しなければならない。


つまり手間暇やコストが必要となるわけだ。
つまり、受け手が深夜アニメやゲームを楽しもうとすれば、これらの手間暇やコストを自ら払う。
これが“自主性”である。


そして、自分が見たり遊んだアニメやゲームを、表現がどうのテーマがどうの操作性が…、と調べたり考えたりすることができる。


これが“検証”である。




さて。
マスコミの場合、受け手の自主性はほとんどない。
TVを持つのが当たり前の日本社会で、受け手の選択権はTVをつけるかつけないか、しかないのだから。
朝、昼、夕方、ゴールデンタイム、とどめは日付変更直前と、ニュースはしょっちゅう流れる。
手間暇なんか要らない、コストもTV代と電気代だけ。


また、アニメやゲームはフィクションなので、事件やイベント、キャラが実際にいるか、などを調べる必要はない。
フィクションということは、実在の人物、団体、事件とは関係ないのだから。


だが、報道はマスコミは違う。
実際にあった事件や事故、その他を報道している(はずである)。
しかし、過剰報道やねつ造がない、という保証はなく、実際に過剰報道やねつ造は行われている。
ということは、マスコミの流す情報を検証する場合、その情報が事実であるか、も検証しなくてはならない。
検証するためには調べる必要があるが、遠く離れた地のことであったり、関係者しか立ち入れない場所を調べなければならないとすると、一般人では全ての情報を集めることは不可能だ(アニメやゲームなどの作品はそれ自体が全てであり、情報も全て入っている)。
すなわち、一般人では情報が事実かどうか確かめるすべがない、ということになる。
せいぜいが複数のニュースを見て、比較検討するくらいだ。


以上の理由から、マスコミは検討できない、と結論づけることができる。


入手するのに自主性が必要ないこと、検証が不可能であること。
この2つを証として、誤解や偏見、そして事件への影響力が強いのはマスコミであるといえよう。




また。
マスコミが暴走しやすいのは、その責任の軽さも原因だろう。
アニメやゲームなどの作品は問題が起きれば、回収や発売中止などは当たり前で、最悪の場合、作り手の企業や団体が潰れる。
マスコミは謝罪すれば終わり。
TVの前で「サーセンwww」と言った後は、何事もなかったかのようにニュースを続ける。
現にTBSなど、いろいろ問題起こしているのに、平然と報道しているじゃないか。


行使している権力に反比例している、この責任の軽さ。


これだけでもマスコミは電通が操るプロパガンダ機関、譲っても自分を勘違いしている大うつけ、と言うことができるだろう。








久しぶりにまじめな話したな、ボクタン。
(・ω・ )